海辺に着いて車のドアを開けた瞬間、ふわっと鼻に届くあの匂い。「潮の香りだなあ」と一度は口にしたことがあると思います。でも、あの香りの正体が何なのか、なぜ海から離れた駐車場でも感じられるのか、改めて聞かれると答えに詰まる人がほとんどではないでしょうか。
結論から言うと、潮の香りの主役はジメチルスルフィド(DMS)という、海藻や植物プランクトンが作り出す硫黄の成分です。海水の「塩そのもの」が匂っているわけではありません。そしてこの小さな分子は、ただ私たちの鼻を喜ばせるだけでなく、海鳥のエサ探しから地球の雲づくりまで、想像以上に大きな仕事をしています。
この記事では、潮の香りの化学的な正体から、よく似た「磯の香り」「海の匂い」との違い、漁港や干潟で匂いが変わる理由、魚介の海らしい風味の秘密、そして匂いと気候のつながりまで、魚好きの目線でまるごと解説します。読み終わるころには、次に海へ行ったとき空気の匂いをひと嗅ぎするのが楽しくなるはずです。
・潮の香りの正体はジメチルスルフィド(DMS)という硫黄成分
・「潮の香り」「磯の香り」「海の匂い」の違いと使い分け
・干潟・漁港・外洋で匂いが変わる理由と、魚の生臭さとの違い
・海の匂いが雲や気候を左右しているという意外なスケールの話
潮の香りの正体はジメチルスルフィドという海の硫黄成分

潮の香りと聞くと「塩水の匂い」を思い浮かべがちですが、塩(塩化ナトリウム)そのものはほとんど匂いません。あの独特の香りを作っているのは、ごく微量の有機硫黄化合物です。まずは主役となる物質の正体から押さえていきましょう。
主成分は海藻とプランクトンが作るDMS
潮の香りの中心にいるのは、ジメチルスルフィド(DMS)という有機硫黄化合物です。常温で液体の物質で、水に溶けにくく、揮発して空気中に漂います。これが海から立ちのぼり、風に乗って私たちの鼻に届いたものが「潮の香り」の主体です。海水中の塩や水そのものではなく、海の生き物が作る化学物質が香りの源だというのが出発点になります。なぜ生き物が硫黄の匂いを出すのかというと、海藻や植物プランクトンが体内の浸透圧を調整したり、低温や紫外線から身を守ったりするために、DMSP(ジメチルスルフォニオプロピオン酸)という物質を蓄えているからです。このDMSPがもとになって、香りの成分が生まれます。
DMSはどこから来るのか|DMSPと海洋細菌の連携プレー
DMSができるまでには、二段構えのリレーがあります。まず海藻や植物プランクトンがDMSPを合成し、それが細胞から海水中に出ます。次に、海にすむ細菌がこのDMSPを分解する過程でDMSが生まれます。つまり「植物プランクトンが材料を作り、細菌が香りに変換する」という分業です。東京大学大気海洋研究所が2020年に発表した研究では、このDMS生成に関わる細菌の分布が海流のシステムに強く支配されていることが報告されています(出典は記事末尾にリンク)。海域や潮の流れによって匂いの強さや質が変わるのは、香りを作る微生物の住み分けが背景にあるわけです。スーパーの鮮魚コーナーで産地によって魚の香りが微妙に違うのも、もとをたどればこうした海の事情とつながっています。
「キャベツが腐った匂い」が薄まると爽やかな潮の香りになる
意外に思うかもしれませんが、DMSは高い濃度ではキャベツが腐ったような、または磯臭い不快なにおいと表現される物質です。それがなぜ心地よい潮の香りになるかというと、答えは「濃度」にあります。海から大気へ放出されたDMSは、広い空気の中で一気に薄まります。ごく低い濃度になったときに、人はそれを爽やかで懐かしい潮の香りとして感じ取るのです。同じ物質でも、濃ければ悪臭、薄ければ好ましい香りという二面性を持っているのが面白いところです。台所で魚やワカメを扱って「磯臭い」と感じるのは、まさにこの成分が濃い状態で鼻に届いているからだと考えると腑に落ちます。
潮の香りの主役はジメチルスルフィド(DMS)。海藻や植物プランクトンが作るDMSPを、海の細菌が分解して生まれます。濃いと悪臭、薄まると爽やかな香りという二面性が、潮の香りの正体です。
潮の香りを強く感じるのはどんな瞬間か
同じ海辺でも、潮の香りが濃く感じられる場面とそうでない場面があります。強く感じやすいのは、海から陸へ風が吹く時間帯、干潮で海藻や生き物が露出しているとき、そして気温が上がって揮発が進むときです。逆に風が沖へ向かっていると、香りは海の方へ流れて陸では薄くなります。潮が満ちて岩場が水に隠れている時間も、香りはおとなしくなりがちです。海辺を散歩していて「さっきより匂うな」と感じたら、風向きが変わったか、潮が引き始めたサインかもしれません。香りの濃淡を手がかりに海の状態を読むのは、昔から漁師や海辺で暮らす人が自然にやってきたことでもあります。
潮の香り・磯の香り・海の匂いは何が違うのか
「潮の香り」「磯の香り」「海の匂い」――どれも似た場面で使われますが、指しているものは少しずつ違います。違いを知っておくと、海辺の体験を言葉でより正確に表現できるようになります。
潮の香りは「広い海の空気」、磯の香りは「岩場と海藻」
ざっくり言うと、潮の香りは海全体から漂ってくる開けた空気の匂い、磯の香りは岩場や海藻が密集した場所の濃い匂いを指す傾向があります。潮の香りは砂浜や防波堤、少し離れた高台でも感じられる広がりのある香りで、主役はやはりDMSです。一方の磯の香りは、海藻やそこに付く生き物が多い岩場特有の、より濃くて土っぽさを含んだ匂いになります。どちらも硫黄系の成分が関わっていますが、磯の香りのほうがDMSやそれに近い成分の濃度が高く、海藻由来の青っぽい香りも混ざっています。磯の香りの成分については、姉妹記事でさらに詳しく掘り下げています。
同じDMSでも濃度と混ざりもので印象が変わる
潮の香りと磯の香りが別物に感じられるのは、主成分が違うからというより、濃度と「混ざりもの」の差によるところが大きいです。外洋に近い砂浜なら、薄まったDMSが主体で、すっきりした潮の香りになります。岩場や潮だまりでは、DMSが濃いうえに海藻の青臭さや、付着生物、わずかな分解臭が加わって、複雑で濃厚な磯の香りになります。料理にたとえるなら、同じだしでも薄めれば上品な吸い物、煮詰めれば濃いつゆになるようなものです。「海の匂い」はこれらをひっくるめた一番広い言い方で、潮の香りも磯の香りも、後で触れる漁港の生臭さも、すべて含んだ総称として使われます。
| 呼び方 | 主に指す場所 | 香りの印象 | 主な成分 |
|---|---|---|---|
| 潮の香り | 砂浜・外洋・海辺全体 | 薄く爽やか・開放的 | 薄まったDMS |
| 磯の香り | 岩場・潮だまり・海藻帯 | 濃く複雑・青っぽい | 濃いDMS+海藻成分 |
| 海の匂い | 海に関わる場所全般 | 場所で大きく変化 | DMS・TMA・他の総称 |
※さかなのさ調べ。香りの印象は一般的な傾向をまとめたもので、海域や季節により異なります。
部屋に海藻や貝を放置して磯臭くなる失敗
潮の香りは戸外では心地よくても、室内にこもると一転して「磯臭さ」になります。よくある失敗が、買ってきたワカメや貝、釣った魚を台所のシンクに置きっぱなしにして、部屋全体が磯臭くなってしまうケースです。原因は、海藻や魚から揮発したDMSやその仲間の成分、さらに後述するトリメチルアミンが、狭い空間にたまって濃度が上がること。薄ければ香りでも、濃ければにおいになるという二面性がそのまま出た形です。対策はシンプルで、海産物は袋を密閉して早めに冷蔵庫へ入れ、扱った後は換気と流水でこまめに洗い流すこと。匂いの正体が濃度の問題だと分かっていれば、こもらせない・薄める・冷やすという基本で多くは防げます。
なぜ海のそばに行くと「懐かしい」と感じるのか

潮の香りには、不思議と心を動かす力があります。久しぶりに海に来ると、理由もなく懐かしくなったり、ほっとしたりする人は多いはずです。これは気のせいではなく、嗅覚の仕組みと深く関わっています。
嗅覚は記憶や感情と直結している
においが記憶や感情を強く呼び覚ますのには、脳のつくりが関係しています。嗅覚の信号は、記憶や感情をつかさどる脳の領域へダイレクトに届くため、ある匂いをかいだ瞬間に、それと結びついた昔の情景や気持ちがよみがえりやすいのです。特定の香りで昔の記憶が一気に戻る現象は「プルースト効果」とも呼ばれます。子どものころ家族で行った海水浴、部活の合宿、釣りに連れて行ってもらった日――潮の香りに紐づいた個人的な記憶があるほど、海辺で感じる懐かしさは強くなります。同じ香りでも人によって思い出す情景が違うのは、香りそのものより、その人が積み重ねてきた記憶の側に理由があるからです。
DMSは海の生き物にとって「エサのありか」のサイン
人が潮の香りに惹かれるのは、もしかすると感傷だけの話ではないかもしれません。海の世界では、DMSは重要な情報の役割を果たしています。植物プランクトンが多い海域、つまり食物連鎖の出発点が豊かな場所ほどDMSが多く放出されるため、海鳥や一部の海洋生物はこの匂いを手がかりにエサの豊富な海域を探していると考えられています。匂いが「ここに食べ物がある」というシグナルになっているわけです。海は生き物にとって、目印の少ない広大な空間です。その中で、香りという化学的な信号が餌場を示す道しるべになっているというのは、潮の香りを単なる風景の一部としてではなく、生態系の情報網として見直すきっかけになります。
実は、海の匂いを「いい香り」と感じるのは万国共通ではない
意外と知られていないのですが、潮の香りを心地よいと感じるかどうかは、世界共通ではありません。香りの好き嫌いは、その人がそのにおいをどんな体験と結びつけてきたかに大きく左右されます。海と楽しい思い出を結びつけてきた人にとっては好ましい香りでも、海となじみが薄い人や、嫌な経験と結びついた人にとっては、ただの「生臭いにおい」に感じられることもあります。同じDMSという物質に対して、人によって正反対の評価が生まれるのです。「潮の香り=万人にとっての癒し」と決めつけず、香りの感じ方は記憶と文化に根ざした主観的なものだと知っておくと、海の匂いというテーマがぐっと奥行きを持って見えてきます。
干潟や漁港で匂いが変わるのはなぜ?場所別の海の匂い図鑑
ひとくちに海の匂いといっても、砂浜・干潟・漁港では、まったく違う香りがします。場所ごとに何が匂いを作っているのかを知ると、海辺の散策が観察の楽しみに変わります。
干潟の独特な匂いは泥と硫黄の循環から
干潟に立つと、潮の香りとは少し違う、土っぽくて少しツンとした匂いを感じることがあります。これは干潟の泥の中で起きている硫黄の循環が関係しています。泥の深い部分は酸素が少なく、そこにすむ微生物が有機物を分解する過程で硫黄系のガスが発生します。これが潮の香りの成分とまざり、干潟ならではの濃い匂いになります。注意したいのは、この匂いを「汚れている」「腐っている」と早合点しないこと。むしろ、生き物の活動が活発で、有機物がしっかり分解・循環している健全な干潟ほど、独特の匂いが立ちやすい面があります。アサリやハマグリが育つ豊かな干潟の匂いは、生態系が回っている証拠でもあるのです。
漁港の生臭さの正体はトリメチルアミン
漁港に近づくと、潮の香りとは別の、はっきりとした「魚くささ」を感じます。この生臭さの主役は、DMSではなくトリメチルアミン(TMA)という成分です。魚の体には、もともとトリメチルアミンオキシド(TMAO)という無臭の物質が含まれていますが、魚が死んで時間がたつと細菌の働きでこれが分解され、生臭いTMAに変わります。つまり漁港の匂いは、水揚げされた魚やその加工の過程で生まれる、鮮度低下のサインを含んだ匂いだということです。潮の香り(DMS)が「生きた海」の匂いだとすれば、漁港の生臭さ(TMA)は「水揚げ後の魚」の匂いで、起源がまったく違います。魚の鮮度と匂いの関係は、傷みの見分け方を知るうえでも役立つので、別記事もあわせて読んでみてください。
釣った魚を港で放置して生臭くなる失敗と対策
場所による匂いの違いは、釣りをする人なら身をもって経験することがあります。よくある失敗が、釣り上げた魚をクーラーボックスに入れず、港のバケツや地面に長時間置いてしまうケースです。気温が高い時期は特に、無臭のTMAOが細菌によって生臭いTMAへと変わるスピードが上がり、短時間で魚の鮮度も風味も落ちてしまいます。対策は、釣れた魚をできるだけ早く締めて、氷を効かせたクーラーボックスでしっかり冷やすこと。冷却は細菌の働きを抑え、生臭さの発生を遅らせます。さらに刺身用の魚を常温で長く放置するのは、ヒスタミンが生成して食中毒につながるおそれもあり避けたいところです。体調に不安が出た場合は、自己判断せず医療機関を受診してください。
外洋・沖の匂いは意外と薄い
「海のど真ん中はさぞ濃い潮の香りだろう」と思いがちですが、実際は逆のことが多いです。沖に出て陸から離れるほど、潮の香りはむしろ薄く感じられる傾向があります。理由は、香りを濃くする要素――海藻が茂る岩場、生き物が密集する潮だまり、有機物がたまる干潟や港――が陸の近くに集中しているからです。広い外洋では、DMSは発生しても周囲の大量の空気にすぐ拡散してしまい、強い香りとしてはまとまりにくくなります。海辺で潮の香りを濃く楽しみたいなら、外洋に面した広い砂浜よりも、岩場や潮だまり、海藻の多い磯のほうが香りの体験は豊かになります。場所選びひとつで、感じられる海の匂いはずいぶん変わるのです。
魚介の「海の風味」を作るブロモフェノールという成分
刺身や貝を口に運んだとき、ふわっと広がる海らしい風味。あの「磯の味」も、実は特定の香り成分が担っています。空気の匂いだけでなく、食べたときの風味にも海の化学が効いているのです。
刺身や貝の「磯の風味」の正体
新鮮な魚介を食べたときに感じる、海を思わせる独特の風味。これにはブロモフェノールと呼ばれる成分が関わっていると考えられています。におい・かおり環境学会誌の魚介類のにおいに関する特集でも、こうした臭気成分が魚介の風味を特徴づける要素として扱われています。ブロモフェノールはごく微量でも海らしい磯の風味を生み出し、魚やエビ、貝などの「いかにも海のもの」という味わいの背景にあります。生臭さ(TMA)が鮮度低下のマイナス要素なのに対し、ブロモフェノールはむしろ新鮮な魚介のおいしさを構成するプラスの風味として働く点が対照的です。同じ海由来の成分でも、料理での役割は正反対になることがあるわけです。
養殖と天然で風味が違う理由はエサにある
天然の魚と養殖の魚を食べ比べて「天然のほうが磯の香りが強い」と感じたことはないでしょうか。その差の一因も、香り成分のもとがエサにあることで説明できます。ブロモフェノールのような海の風味成分は、魚が食べる海藻や底生生物などのエサに由来して体内に蓄積すると考えられています。天然魚は自然界で多様なエサを食べているため、こうした海由来の風味成分を取り込みやすく、結果として磯らしい風味が強く出やすくなります。一方、配合飼料で育つ養殖魚は、脂のりが安定して食べやすい反面、天然魚特有の磯の風味は控えめになる傾向があります。どちらが良い悪いではなく、風味の出方の違いとして知っておくと、魚を選ぶときの楽しみが増えます。
| ジメチルスルフィド(DMS) | 潮の香り・磯の香りの主役。海藻やプランクトン由来 |
| ブロモフェノール | 魚介の「海らしい風味」。エサ由来で蓄積 |
| トリメチルアミン(TMA) | 魚の生臭さ。鮮度低下でTMAOから生成 |
| 泥由来の硫黄ガス | 干潟の土っぽい匂い。微生物の分解活動から |
新鮮さを保てば「いい磯の風味」、放置すれば「生臭さ」へ
同じ魚でも、扱い方ひとつで風味は天と地ほど変わります。鮮度が高いうちは、ブロモフェノールによる心地よい磯の風味が主役になりますが、時間がたって鮮度が落ちると、トリメチルアミンによる生臭さが前面に出てきます。つまり、海の風味を最大限に楽しむコツは、とにかく新鮮なうちに、しっかり冷やして食べること。買ってきた魚はすぐに冷蔵・冷凍し、刺身なら早めに食べきるのが基本です。なお、刺身の表面のぬめりや軽い臭みが気になるときに、塩水でさっと処理する方法もありますが、やり方を誤ると風味や食感を損ねます。刺身を洗うかどうかの正しい考え方は、別記事で詳しく解説しています。
海の匂いが強い日は天気が崩れる、は本当か
「磯の匂いが強い日は雨が近い」――海辺の町でよく聞く言い伝えです。これは単なる迷信なのでしょうか。匂いと気象の関係を、成分の性質から考えてみると、案外もっともな理由が見えてきます。
低気圧や湿度で匂い分子が広がりやすくなる
海の匂いが強く感じられる日には、気象的な背景があります。天気が崩れる前は低気圧が近づき、湿度が高くなることが多いものです。空気中の水分が多いと、揮発した匂いの分子が拡散しにくく、地表近くにとどまりやすくなります。さらに気圧が下がると、海面や干潟、泥の中からガスが抜け出しやすくなる傾向もあります。結果として、雨が近いどんよりした日のほうが、潮や磯の匂いが濃く感じられやすいのです。「匂いが強い=天気が崩れる前ぶれ」という言い伝えは、香り成分の物理的なふるまいから見ると、まったくの的外れではないことになります。
風向きが匂いの届き方を決める
匂いの濃淡を左右するもう一つの大きな要素が風向きです。海から陸へ吹く海風のときは、海で発生したDMSなどの成分が陸地へ運ばれてくるため、海辺はもちろん、少し内陸でも潮の香りを感じやすくなります。反対に、陸から海へ吹く陸風のときは、香りは沖へ流れていき、陸側ではぐっと薄まります。海辺で一日過ごすと、昼と夜で風向きが入れ替わり、それにつれて匂いの強さも変わるのに気づくはずです。天気が変わるタイミングは風向きも変わりやすいので、「匂いが急に強くなった」と感じたら、風や天候が動いているサインとして受け取ることもできます。
昔の漁師が匂いで海を読んでいた知恵
気象観測の機器がなかった時代、海辺で暮らす人々は五感を総動員して天気や海の状態を読んでいました。匂いもその大切な手がかりの一つです。潮の香りや磯の匂いの強さ、風に乗って届く匂いの変化から、潮の満ち引きや天気の崩れを感じ取る経験知が、各地の漁村に言い伝えとして残っています。科学的に一つひとつが検証されているわけではありませんが、その背景には、これまで見てきたような匂い成分のふるまいや、低気圧・湿度・風向きといった条件の変化がちゃんと存在します。海の匂いを「ただの風景」ではなく「情報」として読み解く感覚は、現代の私たちが海辺で過ごすときにも、ちょっとした観察の楽しみとして受け継げるものです。
海の匂いが地球の雲と気候を作っているという意外な話
ここまでは鼻先のスケールの話でしたが、潮の香りの成分は、地球全体の気候にまで関わっています。小さな分子が雲を作り、気温を左右するかもしれないという、壮大なつながりを見ていきましょう。
DMSは雲のタネになる
海から大気へ放出されたDMSは、空気中でただよっているうちに、数日のあいだに化学変化を起こします。まず酸化されて二酸化硫黄(SO2)になり、さらに酸化が進んで硫酸(H2SO4)へと変わり、最終的に硫酸塩の微粒子になります。この微粒子が、雲ができるときの核、つまり雲凝結核として働くのです。水蒸気はこうした微粒子を芯にして集まり、雲粒を作ります。海洋大気の研究でも、DMS由来の微粒子が雲粒の核となり、雲のでき方や雲が太陽光を反射する割合(アルベド)に影響しうることが指摘されています。私たちが心地よく感じる潮の香りの成分が、空に浮かぶ雲の材料の一つになっているというのは、知っておくと海を見る目が変わる事実です。
CLAW仮説|海が地球の気温を調節している?
このDMSと雲のつながりを、地球規模の気候調節として描いたのが「CLAW仮説」です。1987年に4人の研究者(Charlson・Lovelock・Andreae・Warren)が提唱したもので、頭文字をとってこう呼ばれます。仮説の筋書きはこうです。気温が上がると海の植物プランクトンの活動が活発になり、DMSの放出が増える。すると硫酸塩の微粒子が増えて雲の核が増え、雲が太陽光をより多く反射するようになり、地表が冷える方向に働く――つまり、海の生き物が地球の気温を一定に保とうとするブレーキ役になっている、という壮大な見立てです。潮の香りの成分が、惑星規模の体温調節に関わっているかもしれないというのは、海洋生態系の奥深さを感じさせます。
CLAW仮説は魅力的な考え方ですが、フィードバックの正否はまだ完全には解明されていません。気候は無数の要素が絡み合うため、DMSの増減だけで気温が決まるわけではない点に注意が必要です。「海の匂いが地球を冷やしている」と断定はできず、研究が進行中のテーマとして受け止めるのが正確です。
海流が匂いの分布まで決めている
DMSをめぐる科学は、いまも更新され続けています。東京大学大気海洋研究所が2020年に発表した研究では、DMSを生み出す細菌の分布が、海流のシステムに強く支配されていることが明らかにされました。どの海域で、どれだけ香りの成分が作られるかは、海の大きな流れによって左右されているということです。また国立極地研究所が2019年に発表した研究では、硫黄同位体の分析から、氷期には海洋生物に由来する硫酸エアロゾルが減っていた証拠も見つかっています。海の生き物の活動と、大気中の微粒子、そして気候とのつながりを示す手がかりです。潮の香りという身近な現象の背後には、こうした最先端の地球科学が広がっています(出典は記事末尾にリンク)。
身近な香りから地球を考えるという視点
潮の香りをかぐとき、その分子が雲を作り、もしかしたら気候の調節に関わっているかもしれない――そう思うと、何気ない海辺の時間が少し違って見えてきます。鼻先の小さな感覚から、海洋生態系、大気、雲、そして地球全体の気候まで、一本の線でつながっているのです。香りは目に見えませんが、私たちと海と空をむすぶ、確かな化学のメッセージです。海に行く機会があれば、ぜひ深呼吸をして、その匂いがどこから来てどこへ行くのかを想像してみてください。ただの「いい匂い」が、地球を巡る物語の入り口に変わります。
海の気象条件と風向きの関係については、気象庁の観測データが参考になります。
まとめ|潮の香りはDMSが運ぶ海からのメッセージ
潮の香りの正体は、海藻や植物プランクトンが作り、海の細菌が分解して生まれるジメチルスルフィド(DMS)でした。塩そのものではなく、海の生き物が生み出す微量の硫黄成分が、あの懐かしい香りの主役です。濃ければ磯臭く、薄まれば爽やかというDMSの二面性が、潮の香りと磯の香りの違いを生み出しています。そして同じ海でも、干潟・漁港・外洋で匂いが変わるのは、それぞれの場所で働く成分が違うからでした。さらにDMSは雲の核となり、地球の気候にまで関わるかもしれないという、想像を超えるスケールの仕事までこなしています。
この記事の要点を整理します。
- 潮の香りの主成分はジメチルスルフィド(DMS)。海藻・プランクトンのDMSPを細菌が分解して生まれる
- DMSは濃いと悪臭、薄まると爽やかな潮の香りになる二面性を持つ
- 潮の香りは広い海の空気、磯の香りは岩場・海藻の濃い匂い、海の匂いはその総称
- 漁港の生臭さはDMSではなくトリメチルアミン(TMA)で、鮮度低下のサイン
- 魚介の「海らしい風味」はブロモフェノールが担い、エサ由来で天然・養殖の差になる
- 海の匂いが強い日に天気が崩れやすいのは、低気圧・湿度・風向きの影響
- DMSは雲の核になり、CLAW仮説では気候調節に関わるとされる(正否は未解明)
まずは次に海へ行ったとき、砂浜と岩場で空気の匂いを嗅ぎ比べてみてください。同じ「海の匂い」でも、開けた潮の香りと濃い磯の香りの違いがきっと感じ取れるはずです。そして魚を選ぶときには、生臭さ(TMA)と磯の風味(ブロモフェノール)が別物だと思い出してみてください。匂いの正体を知るほど、海と魚はもっと面白くなります。
※本記事は一般的な情報をまとめたものです。魚介の鮮度や体調面で不安がある場合は、無理をせず医療機関にご相談ください。最新の研究情報は各公的機関の公式サイトでご確認ください。
【参考・一次情報源】
東京大学大気海洋研究所「硫化ジメチル生成に関わる細菌の分布は海流系に強く支配される」:https://www.aori.u-tokyo.ac.jp/research/topics/2020/20200731.html
北海道大学 LASBOS「CLAW仮説」:https://repun-app.fish.hokudai.ac.jp/mod/page/view.php?id=1520
国立極地研究所「硫黄同位体組成が解き明かす南極硫酸エアロゾルの起源」:https://www.nipr.ac.jp/info/notice/20190828.html
東京海洋大学「海洋生態系・植物プランクトン・DMS」資料:https://www.s.kaiyodai.ac.jp/ship/umitaka/umitaka9/DMS.pdf

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